岸和田城は文政10年(1827年)11月20日に
落雷で炎上、昭和29年時の市長 福本太郎氏に
より鉄筋コンクリート3層の天守閣が復元されました。
戦後物資の不足の折柄、城址保存会、市民の協力
により総額3,460万円で、図書館建設の名目にて
岩出建設(株)により復元されたものです。
これを見に岸和田へ旅しに来ませんか。
岸たび編集局N
はじめまして「岸たび」です!
このたびは岸和田の観光情報満載、「岸たび」に
お越しいただき、ありがとうございます。
2013年2月20日(水)より岸和田の観光情報満載を
みなさまにお伝えするため、「岸たび」が稼動し始めました。
岸和田を“旅”するなら、まず「岸たび」をチェック!というコンセプトのもと、
岸和田商工会議所 職員が、地元のものしかわからない・・・
いや、地元のものでもわからないような“ディープ”な情報を発信していきます。
もちろん、岸和田の名所旧跡、観光地のモデルコースなども発信していきます。
しかし、一般的な観光地めぐりにとどまらない、ちがった切り口で
岸和田の情報をお届けできるよう取り組んでまいります。
ぜひ、「岸たび」をご覧になっていただき、
岸和田に興味を持ち、
岸和田に遊びにきていただき、
岸和田を好きになっていただければと考えております。
「岸たび」をよろしく、お願い申し上げます。
2013年NHK大河“八重の桜”主人公の「新島八重」。
その新島八重と岸和田にはいろいろな関係があります。
岸和田煉瓦、泉南高等女学校、岸和田教会・・・
夫、新島襄とともに、なんども岸和田を訪れた新島八重。
そんな新島八重と岸和田のつながり、
新島八重が歩んだ「岸和田」をめぐってみませんか?
●泉南高等女学校跡(現 福祉総合センター)
大正6(1917)年1月22日、新島八重が来岸し、 「白虎隊」の講演をおこないました。 現在この地に残る“旧泉南高等女学校校舎”は、 所在地 岸和田市野田町1-5-5 |
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●岸和田煉瓦(株) 本社工場跡
岸和田煉瓦(株)は、元岸和田藩士である 山岡尹方(やまおかただかた)が、明治20(1887)年に 第一煉瓦製造会社として設立しました。 その全身は明治15(1872)年に創設された 煉瓦製造会社(士族授産事業として始められた)で、 日本の煉瓦産業の先駆的事業として注目されます。 山岡尹方は新島八重の夫 新島襄が岸和田へ 所在地 岸和田市並松町25-17 |
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●勘太夫橋 岸煉レンガモニュメント
大阪ミュージアム構想にも登録される、レンガ塀。 塀に使用されているレンガは岸和田煉瓦製で、 レンガの表面には岸和田煉瓦(株)の社章である 「セント アンドリュー クロス」の印が刻印されている。 岸煉のレンガは高品質で耐久性があるとされ、 所在地 紀州街道(岸和田市並松町19-16付近) |
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●岸和田藩校講習館跡
新島八重に影響を与えた「吉田松陰」は幕末の激動する 時代に長州藩を脱藩し、水戸、会津(日新館の見学)など 諸国を回り、先進の藩校などの視察や日本のあり方を 論議して歩いていた。 そんな中、吉田松陰は岸和田藩校講習館の館長だった 所在地 岸和田市北町16-14 |
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●吉田松陰 止宿地(久住家住宅)
吉田松陰が黒船への最初の密航を企てて 失敗する数ヶ月前、相馬九方をたずね来岸。 塩屋平衛門宅(紀州街道の久住家)に10日間滞在しました。 久住家住宅(吉田松陰の止宿地)のある紀州街道 所在地 紀州街道 まちづくりの館 向かい(岸和田市本町) |
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●岸和田城
新島八重の夫 新島襄に岸和田でのキリスト教布教を 依頼した、岸和田藩13代藩主 岡部長職の居城。 文政10(1827)年に天守閣が落雷で焼失。 所在地 岸和田市岸城町9-1 |
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●岸和田教会
明治18(1885)年に設立され大阪では五番目に古い プロテスタント教会で、本町の紀州街道沿いに設立されました。 何度かの移転ののち、大正9年に現在地 所在地 岸和田市岸城町28-15 |
年間125種類もの野鳥が飛来し「野鳥の国際空港」ともよばれる、
大阪府下最大のため池「久米田池」。
この久米田池周辺には「久米田古墳群」や、
僧行基が天平10(738)年に開基した「久米田寺」など史跡が点在します。
久米田池で観測できる野鳥など、自然を楽しむとともに、
久米田池周辺の歴史にふれてみませんか?